(元インドネシア大統領夫人、1940〜 )

東京生まれ、16才の時、家計を助けるために銀座の高級ナイトクラブで働き始める。
1959年インドネシアのスカルノ大統領(当時)と出会い、その招きに応じ単身インドネシアへ渡る。
1962年、結婚。
大統領第3夫人となるも、そのわずか3年後、「9月30日事件」によりスカルノ失脚。
1967年、一人娘カリナ出産。
1970年にスカルノと死別。パリの社交界に新天地を求め、フランスへ渡る。
その後もロッジ事件、ヌード写真集出版など波乱万丈の人生を送り現在に至る。
現在は、ワイドショーやTV番組での辛口コメンテーターとして活躍中です。






アジア インドネシア共和国 AD1901 オランダ領東インド
 1901〜1970 インドネシア民族独立運動における最大の指導者。
インドネシア共和国初代大統領(1945〜1967)。

【出自・教育】スラバヤで誕生。父はジャワ人で下級プリヤイ(貴族)出身の小学校教師。
母はブラーフマナ=カーストのバリ女性。14歳でモジョケルト(東ジャワ)のヨーロッパ人小学校の
編入生となり,それ以後ジャワでオランダ語による西洋式教育を受けた。1916年にスラバヤの
中学校(HBS)入学。
イスラム同盟
総裁チョクロアミノトの家に寄宿し,卒業までの5年間を過ごす。チョクロアミノト
同宿の多くの民族運動家から多様な政治思想的影響を受けた。1921年,開設間もないバンドン
の工科専門学校(THS)に入学。1926年,工学修了士号を取得して卒業。

【民族独立運動】1926年,論文『民族主義,イスラーム主義,マルクス主義』を発表し,民族独
立運動に身を投じた。
オランダ植民地支配からの独立という共通目的達成のため,各政治勢力が小異を捨てて団結す
べきであると主張し,混迷する運動に活路を開いた。1927年7月,非イスラーム主義民族主義者
の団体,インドネシア国民同盟を結成し,議長に就任。翌年5月,インドネシア国民党と改称。
同党は民族の統一と団結により,大衆行動を通して民族独立を達成しようとした。
1929年末,反乱謀議の嫌疑で逮捕され,8カ月間の法廷闘争の末,4年の禁固刑の判決を受け
た。
法廷弁説「インドネシアは告発する」で植民地主義・帝国主義を痛烈に批判するとともに,独特の
大衆主義(マルハエニズム)を提唱した。
果敢な行動力,人を魅了する雄弁とあいまって,民族独立運動における指導的人物であるとの
印象を人々に強く与えた。1931年末,恩赦令で釈放されたが,ハッタやシャフリールらのオランダ
帰りのより西洋主義的な指導者とは袂を分かち,より大衆重視の路線を選んだ。
1933年末,再び検挙され,フロレス島エンデ(1934〜1938),南スマトラのベンクール(1938〜1942)
に流刑された。
この時期はイスラーム研究に没頭し,イスラーム改革主義に接近したが,啓示の超理性的性格
を否定する合理主義的イスラーム理解にとどまり,彼の思想の根源にある汎神論的なジャワ主義
は揺るがなかった。

デヴィ・スカルノ
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1962〜1965年 Ambarukmo Palace Hotel 建設現場に従事している時、工事竣工真近に
現場視察に来られた際、私が撮影したものです。  カメラはニコンF
スカルノ

スカルノ大統領現場視察

2003.09.21 記